石川県は、北陸地方の中央に位置し、東は富山県、岐阜県に、南は福井県に接し、北は能登半島となっています。地形は、南西から北東に向かって細長くなっています。
わが家からの眺め(石川県庁舎、中央は、行政庁舎(19階)、左側は、議会庁舎(4階)、右側は、警察本部庁舎(7階)、手前に見える高架橋は、北陸自動車道、桜田、金沢、2010年5月26日撮影)
(解説) 石川県庁舎は、2003年(平成15年)1月に、金沢城下の中心地(金沢市広坂2丁目1番1号)から現在の場所(金沢市鞍月1丁目1番地)に移転しました。人にも環境にもやさしく、災害にも強い、議会庁舎(4階)、行政庁舎(19階)、警察本部庁舎(7階)です。(石川県のホームページ: http://www.pref.ishikawa.jp/.)
その頃、私も金沢市平和町3丁目18番15の公務員宿舎(4階建ての3階)から現在のマンション(11階建ての10階)に転居しました。新しい県庁舎と私の住まい、サーパスマンションは、共に同じ頃に新築されていましたので、鉄骨組み立てから完成までの様子が今でも目に浮かびます。
石川県の県名については、同名の郡名にもとづくものです。1872年(明治5年)2月、県庁が金沢から美川(石川郡)に移った時、金沢県が石川県と改名されました。翌年1月、県庁が再び金沢に復帰しましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。(石川ルーツ交流館(美川南町、白山市):http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/ishikawa-rutu/rootkuretakefile/ishikawaroots.jsp.)
わが家からの眺め(上 左側の一番高い建物はホテル日航金沢(金沢駅前)、その背後は兼六園(展望台)向かいの卯辰山、下 日本海に向かって蛇行して流れる犀川、中央の一番高い白い建物は、北国新聞本社、桜田、金沢、2010年5月26日撮影)
ホテル日航金沢(金沢駅前)の右側、中央、卯辰山を背後に、高い白い建物がスカイホテル(武蔵町)で、南町、香林坊、片町へと続く金沢の中心街となっています。(金沢市のホームページ: http://www4.city.kanazawa.lg.jp/.)
犀川の源流は、石川、富山の3市(金沢、白山、南砺)の境、標高1644mの奈良岳(ならだけ)にあり、全長34km、中州も随所に見られ、日本海に向かって、東から西へと蛇行しながら流れています。
(参考文献) 若林喜三郎(監修): 石川県の歴史、北国出版社(1970); 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993).
(追加説明) ○ 石川県の県名については、以下のような歴史的な経過があります。1867年(慶応3年)大政奉還、王政復古、1869年(明治2年)版籍奉還、明治維新により加賀藩は金沢藩となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で金沢藩は金沢県となりました。同年11月、大聖寺県を合併しました。明治政府は、中央集権の体制を確立するため、全国3府302県の統廃合を10年以上繰り返し進めました。
1872年(明治5年)5月2日、金沢は北に片寄りすぎということで、県庁を金沢から手取川口の美川(石川郡)に移し、県名も石川県と改めました。その原因は、薩摩(鹿児島)藩士で、金沢県大参事、新制参事(のち初代の石川権令、県令、県知事)となった内田政風、1815年(文化12年)~1893年(明治26年)による金沢士族の中の不平不満を持つ人々への政治的圧力であったとも言われています。
同年9月、能登の七尾県を合併、同11月、白山麓18ヵ村を編入、さらに、翌年、1873年(明治6年)1月、金沢に県庁を復帰させましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。