ダルマさんと言えば、商売繁盛、開運出世の縁起物(えんぎもの)、また選挙の時には必勝祈願の呪物(じゅぶつ)の姿が目に浮かびます。ダルマさんの本当の姿は、達磨大師、中国の少林寺で面壁(めんぺき)9年の坐禅の功を積み、禅宗の開祖となったインドの高僧です。人生は、起上り小法師、七転八起、人々の生きる心の支えとなっています。
禅宗の始祖とされる達磨(だるま、生没年未詳)は、正しくは、梵語(ぼんご、サンスクリット語)、Bodhidharmaの音訳、菩提達磨(ぼだいだるま)と言い、諡号(しごう)は円覚大師、達磨大師と呼ばれています。南インドのバラモンの生まれ、香至国の第3王子と言われています。出家後は、般若多羅(はんにゃたら)に学び、大乗禅を究め、527年(大通元年)、大乗仏教の僧として、中国における禅の教化という師の遺志を受け継ぎ、海路中国に渡り、南京の梁(りょう)の武帝(ぶてい、464~549年) の尊崇を受けました。
その時にやった武帝との問答は有名です。武帝が、「聖諦(しょうたい、仏教の精神の意)第一義は何か」と問うたのに対し、達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう、とても広くて、仏教精神の第一義などない、という意)」と答えました。そこで重ねて武帝が、「朕(ちん)に対する者は誰そ」と問うたところ、達磨は、「知らない」と答えました(伝法正宗記)。
達磨大師(達磨図、月岡芳年、木版画、1887年(明治20年)、google画像)
嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ、曹洞宗、河南省、中国、google画像)
(解説) 達磨は、武帝の質問に満足せず、北魏の河南省、嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に行き、「終日面壁而坐9年」、面壁9年(壁に向かって9年間座し、悟りを開いたという故事)の修行をしました。縁日などでなじみ深い張子のダルマは、この達磨大師の坐禅した像を模したものです。その後、達磨は、慧可(えか)に禅の奥義を授けたと伝えられています。しかし、その伝記とか著書には伝説的な要素が多いようです。
禅宗は、仏心宗、達磨宗とも呼ばれ、その奥義は、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心、直示人心、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に要約されると言われています。それは、文字に頼ることなく、心の修行によって、自得される無住空寂な心(悟り)により、仏の心を直接に感得すると言う。達磨の提唱する大乗禅は、仏教でありながら、哲学的で、中国の思想家にも大きな影響を与えたと言われています。
また、日本各地の達磨大師ゆかりの仏教寺院として、達磨寺(曹洞宗、北広島、北海道)、達磨寺(黄檗宗、高崎、群馬)、法輪寺(臨済宗、上京、京都)、達磨寺(臨済宗、北葛城、奈良)、達磨寺(臨済宗、伊豆、静岡)、勝尾寺(達磨寺とも、真言宗、箕面、大坂)、西来院(臨済宗、那覇、沖縄)などがあります。
達磨大師が日本に渡来した確証はなく、大師に対する日本人の篤い(あつ)い帰依(きえ)が、達磨大師と聖徳太子の邂逅(かいこう)伝説となり、また、日本各地の達磨寺の存続につながっていると考えられています。
法輪寺(ほうりんじ、臨済宗、だるま寺とも、上京、京都、google画像 )
(解説) 縁日などの張子のダルマは、達磨大師の坐禅に因み、手足のない赤い衣をまとった僧の姿の人形です。 起上り小法師(おきあがりこぼし、異称は不倒翁)の一つで、普通、顔面以外の部分を赤く塗り、達磨の形の人形の底に重りをつけ、倒してもすぐに起き直るように作られています。法輪寺(だるま寺とも、京都人ブログ2、京都):http://kata2.wablog.com/128.html.)
ダルマは、商売繁盛、開運出世の縁語物としても喜ばれ、目のない達磨に願いごとがかなった時に目玉を描き入れる風習があります。郷土玩具として、張子製のものが各地で作られ、達磨市の立つ地方が多いようです。松川達磨(仙台、宮城)、目無し達磨(豊岡、群馬)、子持達磨(甲府、山梨)、姫達磨(松山、愛媛)などが著名です。
(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.171、ダルマと禅宗、三宝出版社(1994); 吉野裕子: ダルマの民俗学、陰陽五行から解く、岩波新書(1995).
(文献資料) 嵩山少林寺(河南、中国、google画像):http://211.89.225.4:82/gate/big5/www.cnr.cn/2008zt/hjcd/csmp/hn/tp/200807/t20080716_505036922.html
(追加説明) ○ 少林寺は、中国、河南省、登封県の崇山(すうざん)の西方、少室山の北麓にある名刹です。北魏の孝文帝が、496年に創建、北周の廃仏に会って伽藍が破壊されましたが、隋唐代に復活、山門、天主殿、大雄宝殿など多くの建築物があります。達磨大師の面壁9年、少林拳発祥の地として有名です。
ところで、この少林寺は、「少林寺拳法」の発祥地としてお馴染みです。この拳法は、いつ、誰によって始められたのか、分からないのですが、いつのまにか普及して、近年、映画にもなり、大きな反響を生みました。皮肉にも、少林寺には達磨の言行は全く伝わっていないのですが、拳法はずっと伝えられ、ついに拳法の大本山になった次第です。(樋口清之(監修)、生活歳時記より)
○ 達磨を宗祖とする中国の禅宗は、孝徳天皇の653年(白雉4年)、入唐した道昭(どうしょう)が玄奘三藏法師に遭って禅定を習い、帰国後、元興寺に禅院を建てたのがその招来のはじめと言われています。桓武天皇の802年(延暦21年)、最澄が入唐して、天台の教法と禅宗を招来しました。また、後鳥羽天皇の1187年(文治3年)、栄西が入宋し、臨済宗を招来、ついで道元も入宋し、帰朝して曹洞宗を伝えました。後光明天皇の1654年(承応3年)、中国僧、隠元隆琦(いんげん りゅうき)が来朝して、臨済禅の一派、黄檗宗を宇治を本拠として、日本に定着させました。
○ 七転八起とは、七たび転んで八たび起きる意です。人生の浮き沈みが甚だしく、度重なる失敗をしても屈することなく奮起する、とのたとえです。私が中学生の時の恩師、熱田治先生の賀状には、毎年ダルマが毛筆で描かれていて、その風貌が強く印象に残っています。
○ 達磨大師のもう一つの像(すがた)、容(かたち)を象徴するものは、インド哲学、仏教のの4大(地大、水大、火大、風大)の火天、中国哲学の五行(木火土金水)の火である、と考えられています。そして、起上り小法師は、火の造形であり、火の本性は炎上であり、たとえ風などにより炎が横倒しになっても、すぐに真っ直ぐ炎上する姿を表していると言う。
黒谷(板野、德島)にある大日寺(だいにちじ、4番、真言宗)の南の地蔵寺のあるところの地名は、羅漢といいます。本堂の裏のもと寺があったところを、江戸時代の中頃に地ならしをして五百羅漢を安置して奥の院としました。
羅漢堂では、正面に釈迦如来、右手にはお大師さん、左手に弥勒さんが祭られています。弥勒さんはお釈迦さんが亡くなって56億7000万年たってからこの世に救済に現れる仏さんであり、今は中間の時期なので、その間は羅漢さんに救ってもらおうという意味です。
第5番地蔵寺奥の院 五百羅漢堂内部(羅漢、板野、google画像)
(解説) 羅漢は阿羅漢(あらかん)の略で、煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人です。狭義には小乗仏教の理想の仏です。お釈迦さんの五百人のお弟子さんは、お釈迦さんから、お前は覚(さと)った、ということで、授記(じゅき)という覚りの許可状のようなものをもらって羅漢になりました。 ということで、釈迦崇拝が五百羅漢の崇拝になっています。
ところが、一般民衆は五百の菩薩の格好をした顔がおもしろいので、亡くなった人の面影を羅漢さんの中に探すという信仰の方に変わって行きました。地蔵寺奥の院の五百羅漢さんでも、亡くなった人の供養にお参りするようです。
ところで、生垣(いけがき)に使う槙(マキ)には、羅漢さんとどこか似た、ラカンマキ(羅漢槙)と呼ばれるマキ科の常緑小高木があります。
ラカンマキ(羅漢槙、上 羅漢槙の実、 下 羅漢槙の葉、google画像)
(解説) ラカンマキ(羅漢槙)は中国原産と言われています。イヌマキの変種で、イヌマキより枝が多く、葉は密生して短く、幅狭く、高さは5m内外です。
雌雄異株で、実の形が僧侶になる前の羅漢さんに似ているところから、羅漢槙の名が付きました。また、その葉の形が、衣を着た羅漢さんとよく似ていることにも由来しています。種子は楕円形、青緑色で、赤くなったところは、甘く、おいしいです。私は生家(引野、板野)の槙の実を食べたことがあります。槙は、建材、器具材、桶(おけ)などにも使われています。
(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 五来重: 四国遍路の寺、下、p.49、地蔵寺、五百羅漢は釈迦信仰から、角川ソフィア文庫(2009).
(参考資料) 地蔵寺五百羅漢(板野、德島): http://www41.tok2.com/home/kanihei5/tokusima-jizoji.html;
マキ(槙の葉の形、イヌマキ、コウヤマキ、ナギ、ラカンマキ、google画像): http://www26.tok2.com/home/sasatuushin/sasatuushin/tool/sokuzyou2-shinyouzyu/sokuzyou2-shinyouzyu.html;
ラカンマキ(槙の実、植物図鑑、google画像): http://eco.goo.ne.jp/nature/plant/data/data264.html;
ラカンマキ(羅漢槙、槙の実、生垣、google画像)http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/gymnospermae/podocarpaceae/rakanmaki/rakanmaki.htm.
(追加説明) ○ 大乗仏教は、紀元前後頃からインドに起こった改革派の仏教です。従来の部派仏教が出家者中心、自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼んで、在家者を重視し、利他中心の立場をとりました。中国、日本、チベットなどの北方仏教は、大乗仏教の流れを受けています。
石川県は、北陸地方の中央に位置し、東は富山県、岐阜県に、南は福井県に接し、北は能登半島となっています。地形は、南西から北東に向かって細長くなっています。
わが家からの眺め(石川県庁舎、中央は、行政庁舎(19階)、左側は、議会庁舎(4階)、右側は、警察本部庁舎(7階)、手前に見える高架橋は、北陸自動車道、桜田、金沢、2010年5月26日撮影)
(解説) 石川県庁舎は、2003年(平成15年)1月に、金沢城下の中心地(金沢市広坂2丁目1番1号)から現在の場所(金沢市鞍月1丁目1番地)に移転しました。人にも環境にもやさしく、災害にも強い、議会庁舎(4階)、行政庁舎(19階)、警察本部庁舎(7階)です。(石川県のホームページ: http://www.pref.ishikawa.jp/.)
その頃、私も金沢市平和町3丁目18番15の公務員宿舎(4階建ての3階)から現在のマンション(11階建ての10階)に転居しました。新しい県庁舎と私の住まい、サーパスマンションは、共に同じ頃に新築されていましたので、鉄骨組み立てから完成までの様子が今でも目に浮かびます。
石川県の県名については、同名の郡名にもとづくものです。1872年(明治5年)2月、県庁が金沢から美川(石川郡)に移った時、金沢県が石川県と改名されました。翌年1月、県庁が再び金沢に復帰しましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。(石川ルーツ交流館(美川南町、白山市):http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/ishikawa-rutu/rootkuretakefile/ishikawaroots.jsp.)
わが家からの眺め(上 左側の一番高い建物はホテル日航金沢(金沢駅前)、その背後は兼六園(展望台)向かいの卯辰山、下 日本海に向かって蛇行して流れる犀川、中央の一番高い白い建物は、北国新聞本社、桜田、金沢、2010年5月26日撮影)
ホテル日航金沢(金沢駅前)の右側、中央、卯辰山を背後に、高い白い建物がスカイホテル(武蔵町)で、南町、香林坊、片町へと続く金沢の中心街となっています。(金沢市のホームページ: http://www4.city.kanazawa.lg.jp/.)
犀川の源流は、石川、富山の3市(金沢、白山、南砺)の境、標高1644mの奈良岳(ならだけ)にあり、全長34km、中州も随所に見られ、日本海に向かって、東から西へと蛇行しながら流れています。
(参考文献) 若林喜三郎(監修): 石川県の歴史、北国出版社(1970); 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993).
(追加説明) ○ 石川県の県名については、以下のような歴史的な経過があります。1867年(慶応3年)大政奉還、王政復古、1869年(明治2年)版籍奉還、明治維新により加賀藩は金沢藩となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で金沢藩は金沢県となりました。同年11月、大聖寺県を合併しました。明治政府は、中央集権の体制を確立するため、全国3府302県の統廃合を10年以上繰り返し進めました。
1872年(明治5年)5月2日、金沢は北に片寄りすぎということで、県庁を金沢から手取川口の美川(石川郡)に移し、県名も石川県と改めました。その原因は、薩摩(鹿児島)藩士で、金沢県大参事、新制参事(のち初代の石川権令、県令、県知事)となった内田政風、1815年(文化12年)~1893年(明治26年)による金沢士族の中の不平不満を持つ人々への政治的圧力であったとも言われています。
同年9月、能登の七尾県を合併、同11月、白山麓18ヵ村を編入、さらに、翌年、1873年(明治6年)1月、金沢に県庁を復帰させましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。
徳島(とくしま)という名は、もと、猪山(いのやま)の東方、吉野川の三角州の一つの島の名でしたが、嘉名ということで、城と城下町の名になったと言われています。吉野川の河口付近の中州(三角州)上に位置する徳島市内には、島の名が付く町名が多いようです。
徳島は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう)に入城してから、城下町として発展しました。渭山は、その形が猪(いのしし)が伏している姿に似ているので、猪ノ山(いのやま)と言っていたのを、渭山(いのやま)の字が好いということで、猪山を渭山に改めたと言われています。
また、城山には、先住民の遺跡跡があり、私も以前に訪れたことがあります。東南隅の岩窟(第三号貝塚)は、岸壁の海蝕による自然の洞穴であり、貝層(ハマグリ・カキ・バイガイ)が出土、また、縄文後期~晩期の土器、弥生時代の土器片などが発見されています。
德島城址(上 助任川(北)からの城山(渭山)、中 城山(東南隅の岩窟)の貝塚、 下 徳島城(南東)からの表口の見付門、鷲の門、1989年(平成元年)9月27日、徳島市制100周年を記念して、吉田ツルエ氏により復元寄贈、google画像)
(解説) 徳島城は、風光の美しさが、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭山城とか渭津城と呼ばれていました。室町時代、室町幕府の管領、細川頼之、1329年(元徳元年)~1392年(元中9年、明徳3年)が、小城を築いたのが徳島城の始まりです。その頃の阿波は、細川、三好氏の支配下にあり、勝瑞の城下町が中心地でした
安土、桃山時代、1585年(天正13年)6月、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)が、1582年(天正10年)、四国統一を目指し、渭津城を攻略していた長宗我部元親、1539年(天文6年)~1599年(慶長4年)を征伐した時、勲功のあった蜂須賀正勝(小六)、1526年(大永6年)~1586年(天正14年)の嫡子、蜂須賀家政、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)が、秀吉より阿波一国(18万6000石)を賜りました。はじめは、徳島市西部の一宮城に入城しました。
しかし、早々に、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある標高62mの渭山(のち德島)の地に大規模な平山城の築城を始め、1587年(天正15年)に完成させました。この時、家政は、地の利を頼むよりも、人の和を得ることこそが、これからの大名には必要である。要は徳にあって嶮ではない、と説いたと言う。そして、旧領の尾張や播州竜野、領国の勝瑞の城下町の商人などを德島城の周辺に移住させ、城下町(内町の町屋)を築きました。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のブログホームページをご覧下さい。http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki79.html
眉山の名前は、遙かなる阿波国の方角に見える山影を望み、眉(まゆ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕(こ)ぐ舟 泊しらずも、との詠歌(万葉集、巻6、998)に由来すると言われています。その意味は、眉のように遠い空の彼方に見える阿波の山、その方にかけて漕いでいる舟の泊まるところは、どこだろう、というものです。
この歌は、聖武天皇(第45代)、701年(大宝元年)~756年(天平勝宝8年)が、734年(天平6年)3月に、難波の宮に行幸された時の歌六首のうちの一首で、隋l行した船王(ふなのおおきみ、生没年未詳、淳仁天皇(第47代)の兄)が詠んだものです。
しかし、江戸時代、庶民には眉山はなじみうすく、富田の山や佐古の山と呼んでいました。1895年(明治28年)、小学校教科書(地誌)に眉山の地名が表れ一般化しました。
眉山の呼び名については、諸説あり、1724年(京保9年)4月、徳島藩(第6代世嗣、早世)、蜂須賀吉武(はちすかよしたけ)、1691年(元禄4年)~1725年(享保10年)を徳島城内に招いた歌会で、京の歌人、有賀長伯(あるがちょうはく)、1661年(寛文元年)~1737年(元文2年)が、眉山の霞と題して、立春の みどりをこめて 佐保姫の 粧ひふかく 霧む山まゆ、と詠んだのが最初と言う。
また、1815年(文化12年)、徳島藩が、阿波志を編集した時には、まだその山は富田山となっていました。藩医、漢詩人の七條寿庵が、1728年(享保13年)、阿波十ヶ所参りをして、みちの記を書いて、船主の歌から眉山と命名した、と地元では伝えられています。寿庵は、眉のごと雲間に見ゆる、とは遠山を汎称し、一山をさすにあらざるなり、と述べています。
ということで、一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降と考えられています。明治の中頃、1895年(明治28年)には、小学校教科書の地誌に、眉山の地名が表れています。(徳島市編纂室編纂委員、吉益譲氏より)
眉山の山頂から徳島市街地と吉野川の河口域を遠望(中央の緑の小高い山は城山、徳島城址、北方のその向こうには吉野川、小さく吉野川橋、徳島市、google画像)
眉山の山頂へは、ロープウエーで6分、ほかに約4kmのパークウェーもあります。山頂一帯(茂助ヶ原と呼ぶ)、周辺には、放送局のテレビ塔や戦没者慰霊の塔パコダ、徳島人として生きたポルトガルの外交官、文豪、モラエス、 1854年(安政元年)~1929年(昭和4年)の記念館、宗教家、社会運動家、平和運動家の先駆者、賀川豊彦、1888年(明治21年)~1960年(昭和35年)の碑、展望休憩所、保養施設などがあります。山頂からの眺望がすばらしく、眼下に徳島市街が広がり、晴れた日に淡路島や和歌山の山が見渡せます。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のブログホームページをご覧下さい。http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki78.html
八十八夜、新茶摘み(お~いお茶 有明、鹿児島、伊藤園、google画像)
(解説) 日本的な緑茶、玉露(ぎょくろ、一番茶)、煎茶(せんちゃ、二番茶)、番茶(ばんちゃ、三、四番茶)の製法は、若葉を摘み取り、蒸して葉の中に含まれている酵素(ポリフェノールオキシダーゼ)の働き(酸化反応)を止め、緑色の色素(クロロフィル)を美しく残させ、ヨリをかけて乾燥させ仕上げます。
摘み取る1~2週間前、茶園をヨシズやワラで覆い、日光を遮(さえぎ)り、茶の葉を軟らかく美しく仕上げたのが玉露で、一方、日光に当てたまま摘み取ったのが煎茶、番茶です。
煎茶は、玉露より旨味(うまみ)のアミノ酸のテアニン(グルタミン酸のエチルアミド)、カフェインが少なく、渋味(しぶみ)のタンニン(ポリフェノールの総称、特にカテキン類)とビタミンCが多い。日光が葉に当たるにつれ、旨味のテアニンは渋味のタンニンに変っていきます。
玉露と同じように、茶園に覆いをかけて育てた若葉(一番茶)を摘み取り、ヨリをかけず葉のまま乾燥したのが碾茶(てんちゃ)で、これから粉末状の抹茶(まっちゃ)が作られます。抹茶には、旨味のテアニン、ビタミンC、ビタミンA、鉄分、カルシウムなど多く含まれています。
玉露(ぎょくろ、八十八夜、一番茶、宇治、京都 ほっこり庵 七之進、google画像)
(解説) お茶の美味しい入れ方としては、煎茶は、緑茶の旨味成分(テアニン)が80℃前後でとけてくるので、沸騰した湯をさまし、糸のように細く注いで2~3分おきます。玉露はその成分が濃いので、さらに低く60~70℃位にします。番茶は香りで飲むので100℃の沸騰した湯を使います。沸騰した湯を冷たくし、茶の葉を加えて一晩冷蔵庫で寝かせると、まろやかな冷茶ができます。温めた茶碗に平均に回し入れて急須(きゅうす)に湯を残さないようにしないと、50℃以下で渋いタンニンがしみ出して黄色くなります。 また、番茶(三、四番茶)は、硬くて苦味が強くなるので、焙(ほう)じて香りを出して飲みます。
昔、宵越しのお茶はお腹をこわす、と言われたのは、タンニンが嫌われたものでしたが、最近これが過酸化脂質ができるのを防ぐことが分かり、注目されてきました。つまり、緑茶は、しみ、腹痛、動脈硬化、糖尿病、肝臓病、さらにはガンを作る元凶を予防するので、日本人にとって大事な飲み物となりました。適度なカフェインは、軽い興奮を誘って、頭が冴え、疲れが取れ、爽やかな気分になれます。また、眠気覚まし、利尿の効果もあるようです。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のブログホームページをご覧下さい。http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki77.html
江戸後期、文政(1818~1830年)頃、藩主(12代)前田斉広(なりなが)、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)が、豪華な竹沢御殿(隠居所)、辰巳用水を取り入れた曲水を造り、各種の石橋を架け、本格的な造園を行い、松平定信(白河楽翁)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)に、庭園の名を兼六園と命名してもらいました。
その後、藩主(13代)前田斉泰(なりやす)、1811年(文化8年)~1884年(明治17年)が、父の竹沢御殿を、完成して8年を待たず、順次取り崩しながら、霞ヶ池の掘り広げ、護岸、千歳台の築庭など、また、蓮池庭との境を取り除くなど、現在の池泉廻遊式庭園に近い大庭園を完成させました。
兼六園(虹橋、にじはし、徽軫燈籠、ことじとうろう、霞ヶ池、兼六町、金沢、google画像)
(解説) 徽軫燈籠は、虹橋を琴に見立て(琴橋)、燈籠の足が、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。燈籠の右足が短い不均整さが、この燈籠の美しさを引き出しています。ところが、幕末に近い文久(1861~1863年)頃に描かれた兼六園絵巻では、燈籠の両方とも同じ長さで、右足も水につかっています。
ということで、明治になり、何かの理由で倒れて燈籠の片足が折れたのだろうと言われています。その証拠に、燈籠の折れた右足の下半分はすぐそばに置いてあります。その後、徽軫燈籠は7回ほど心ない人に壊され、現在の燈籠は京都の石屋に依頼して造ってもらったものだそうです。 初代の燈籠は、藩主(12代)前田斉広に木谷藤右衛門(8代、生没不明、北前船主、豪商、粟崎、加賀、越前出身?)が献上したものと言われ、今は完全に修復され、兼六園管理事務所の倉庫に保管されています。
兼六園(扁額、松平定信(白河楽翁)書、石川県伝統産業工芸館、常設展示、google画像)
(解説) 江戸において、加賀藩主(12代)前田斉広から竹沢御殿(約1万3000㎡の隠居所)にある庭の命名を頼まれた白川楽翁、こと松平定信は、広々としている(宏大)、けれども奥深さ(幽邃)があり、人の手が加わって(人力)いても、古びた趣(蒼古)があり、池や滝(水泉)がたくさんあるのに、遠くまで眺める(眺望)ことができる、と六勝を兼ね備えた洛陽(中国)の名園、湖園(こえん)に因んで、兼六園と命名しました。そして、 1822年(文政5年)9月、松平定信から加賀藩へ、自ら筆をとった兼六園の扁額が届きました。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のブログホームページをご覧下さい。 http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki76.html
小立野台地(こだつのだいち、金沢、石川、まちあるきの考古学(金沢):http://www.koutaro.name/machi/kanazawa.htm.google画像、より)
(解説) 金沢城跡とその周辺域の発掘の時、広坂遺跡(金沢21世紀美術館)では、磨製石斧(縄文時代)、勾玉、車輪石(古墳時代)、布目瓦(広坂廃寺、勝興寺、氏寺?、奈良時代)、皇朝十二銭(奈良時代)、大手町遺跡(KKRホテル金沢)では、赤彩土器(弥生時代)などが出土しています。また、金沢城の本丸と御宮では、石塔(仏身陽刻、五輪塔の水輪、宝塔の笠、密教?、平安時代)が出土しています。
しかしながら、中世(鎌倉・室町時代)以前の遺構や遺物は、予想外に少なく、金沢御堂(みどう)の創建と金沢城の築城の時、大掛かりな地形の造成工事が繰り返され、先人の生活の跡、古墳、氏寺、遺跡などが破壊されたと推定されています。
金沢御堂の周辺地域は、もと石浦村、山崎村、木新保(きのしんぽ)村、今市村など石浦七ヶ村の地であり、農耕中心の農村地帯でしたが、後町(うしろちょう)、南町(みなみちょう)などの町ができ、酒、味噌、醤油の醸造業者、精米業者、鍛冶、鋳物師(いもじ)、金堀り(かなほり、金屋、かなや)など近住の人々が集まり、参詣者も増え、寺院の周囲に寺内町(じないまち、門前町)ができ、発展していきました。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のブログホームページをご覧下さい。http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki75.html
丸山古墳(まるやまこふん、円墳の周濠、土成、阿波市、徳島、google画像)
安楽寺谷墳墓群(あんらくじだにふんぼぐん)は、1991年(平成3年)、高速道路(徳島自動車道)の建設に伴う発掘調査により、阿波三盆糖の里の地域(引野、上板、徳島)で発見されました。そして、これらが3世紀頃の弥生時代末期の埋葬形態である土器棺墓、古墳時代前期の円墳(えんふん)、古墳時代後期の横穴式(よこあなしき)及び竪穴式(たてあなしき)の石室墓であることが確認されました。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のブログホームページをご覧下さい。http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki74.html
漢代(かんだい、紀元前202~220年)の碁盤は、17路5星盤でしたが、次の随代(ずいだい、581~618年)以降になると、19路5星盤に変化しますが、今から100年ほど前まで、5星(花点)のままでした。その碁法、様式は、互先事前置石法という、対局前に4隅の相対する星(4の四)に白黒各2子を交互に置き合い、第一手は白石から打ち始めるものです。呉清源(ごせいげん、九段、中国)、1914年(大正3年)~氏の話によれば、事前置碁制で打ったことがあり、棋譜も残っているとのこと、また、来日した1928年(昭和3年)頃の中国では、まだ事前置碁制の対局が行われていたそうです。
忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう、 上 肆聖囲棋之図、丸山応震筆、日本棋院蔵 中 忘憂清楽集 一巻、 宋李逸民撰 中華書局 1982 影印本三冊、日本棋院蔵、下 世界最古の囲碁対局、 白先孫策 対 呂範、1~43手 打ち掛け、google画像)
(解説) 古代、中国では、貴人、上手が黒を持ち、白から先に打ちました。そこで、孫策が黒、呂範が白を持って打っています。呉清原氏の解説によれば、白21と三々に入ったのは軽妙で注目される。ただ白39は甘く、黒40とえぐられてはつらい。したがって、白39では40と抑えて、黒38の一子は抵抗できない。総体的に見ると白の打ち方が良い。白の方が強く、呂範は当時一級の打ち手であったかも知れない、とのことです。
最古の棋書(中国)は、李逸民(りいつみん、棋待詔、きたいしょう、国手)編、忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう、中国国家図書館秘蔵)で、北宋の徽宗(きそう、8代皇帝、在位、1100~1125年)、1082年(元豊5年)~1135年(紹興5年)時代の著書と言われています。書名は、皇帝の次の詩句によって命名されました。
この歴史的な話題について、その後の詳細については、以下のプログホームページをご覧下さい。http://kanazawa.typepad.jp/weblog/kagakufudoki73.html