江戸後期、文政(1818~1830年)頃、藩主(12代)前田斉広(なりなが)、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)が、豪華な竹沢御殿(隠居所)、辰巳用水を取り入れた曲水を造り、各種の石橋を架け、本格的な造園を行い、松平定信(白河楽翁)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)に、庭園の名を兼六園と命名してもらいました。
その後、藩主(13代)前田斉泰(なりやす)、1811年(文化8年)~1884年(明治17年)が、父の竹沢御殿を、完成して8年を待たず、順次取り崩しながら、霞ヶ池の掘り広げ、護岸、千歳台の築庭など、また、蓮池庭との境を取り除くなど、現在の池泉廻遊式庭園に近い大庭園を完成させました。
兼六園(虹橋、にじはし、徽軫燈籠、ことじとうろう、霞ヶ池、兼六町、金沢、google画像)
(解説) 徽軫燈籠は、虹橋を琴に見立て(琴橋)、燈籠の足が、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。燈籠の右足が短い不均整さが、この燈籠の美しさを引き出しています。ところが、幕末に近い文久(1861~1863年)頃に描かれた兼六園絵巻では、燈籠の両方とも同じ長さで、右足も水につかっています。
ということで、明治になり、何かの理由で倒れて燈籠の片足が折れたのだろうと言われています。その証拠に、燈籠の折れた右足の下半分はすぐそばに置いてあります。その後、徽軫燈籠は7回ほど心ない人に壊され、現在の燈籠は京都の石屋に依頼して造ってもらったものだそうです。 初代の燈籠は、藩主(12代)前田斉広に木谷藤右衛門(8代、生没不明、北前船主、豪商、粟崎、加賀、越前出身?)が献上したものと言われ、今は完全に修復され、兼六園管理事務所の倉庫に保管されています。
兼六園(扁額、松平定信(白河楽翁)書、石川県伝統産業工芸館、常設展示、google画像)
(解説) 江戸において、加賀藩主(12代)前田斉広から竹沢御殿(約1万3000㎡の隠居所)にある庭の命名を頼まれた白川楽翁、こと松平定信は、広々としている(宏大)、けれども奥深さ(幽邃)があり、人の手が加わって(人力)いても、古びた趣(蒼古)があり、池や滝(水泉)がたくさんあるのに、遠くまで眺める(眺望)ことができる、と六勝を兼ね備えた洛陽(中国)の名園、湖園(こえん)に因んで、兼六園と命名しました。そして、 1822年(文政5年)9月、松平定信から加賀藩へ、自ら筆をとった兼六園の扁額が届きました。
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