金沢城址は、犀川と浅野川に挟まれた金沢平野を一望できる小立野台地(こだつのだいち)の先端部にあります。このような地域は、原始時代(旧石器、縄文時代)、古代人の集落の立地に適していました。また、原始から古代(弥生・古墳時代)になると、農耕が始まり、金属(銅、鉄)器の使用、渡来人(朝鮮)文化も加わり、富と権力を握り集落を治める有力者(豪族)が生まれました。その頃の古墳は、当時の支配者、首長の墓です。
小立野台地(こだつのだいち、金沢、石川、まちあるきの考古学(金沢):http://www.koutaro.name/machi/kanazawa.htm.google画像、より)
(解説) 金沢城跡とその周辺域の発掘の時、広坂遺跡(金沢21世紀美術館)では、磨製石斧(縄文時代)、勾玉、車輪石(古墳時代)、布目瓦(広坂廃寺、勝興寺、氏寺?、奈良時代)、皇朝十二銭(奈良時代)、大手町遺跡(KKRホテル金沢)では、赤彩土器(弥生時代)などが出土しています。また、金沢城の本丸と御宮では、石塔(仏身陽刻、五輪塔の水輪、宝塔の笠、密教?、平安時代)が出土しています。
しかしながら、中世(鎌倉・室町時代)以前の遺構や遺物は、予想外に少なく、金沢御堂(みどう)の創建と金沢城の築城の時、大掛かりな地形の造成工事が繰り返され、先人の生活の跡、古墳、氏寺、遺跡などが破壊されたと推定されています。
金沢御堂の周辺地域は、もと石浦村、山崎村、木新保(きのしんぽ)村、今市村など石浦七ヶ村の地であり、農耕中心の農村地帯でしたが、後町(うしろちょう)、南町(みなみちょう)などの町ができ、酒、味噌、醤油の醸造業者、精米業者、鍛冶、鋳物師(いもじ)、金堀り(かなほり、金屋、かなや)など近住の人々が集まり、参詣者も増え、寺院の周囲に寺内町(じないまち、門前町)ができ、発展していきました。
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