徳島(とくしま)という名は、もと、猪山(いのやま)の東方、吉野川の三角州の一つの島の名でしたが、嘉名ということで、城と城下町の名になったと言われています。吉野川の河口付近の中州(三角州)上に位置する徳島市内には、島の名が付く町名が多いようです。
徳島は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう)に入城してから、城下町として発展しました。渭山は、その形が猪(いのしし)が伏している姿に似ているので、猪ノ山(いのやま)と言っていたのを、渭山(いのやま)の字が好いということで、猪山を渭山に改めたと言われています。
また、城山には、先住民の遺跡跡があり、私も以前に訪れたことがあります。東南隅の岩窟(第三号貝塚)は、岸壁の海蝕による自然の洞穴であり、貝層(ハマグリ・カキ・バイガイ)が出土、また、縄文後期~晩期の土器、弥生時代の土器片などが発見されています。
德島城址(上 助任川(北)からの城山(渭山)、中 城山(東南隅の岩窟)の貝塚、 下 徳島城(南東)からの表口の見付門、鷲の門、1989年(平成元年)9月27日、徳島市制100周年を記念して、吉田ツルエ氏により復元寄贈、google画像)
(解説) 徳島城は、風光の美しさが、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭山城とか渭津城と呼ばれていました。室町時代、室町幕府の管領、細川頼之、1329年(元徳元年)~1392年(元中9年、明徳3年)が、小城を築いたのが徳島城の始まりです。その頃の阿波は、細川、三好氏の支配下にあり、勝瑞の城下町が中心地でした
安土、桃山時代、1585年(天正13年)6月、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)が、1582年(天正10年)、四国統一を目指し、渭津城を攻略していた長宗我部元親、1539年(天文6年)~1599年(慶長4年)を征伐した時、勲功のあった蜂須賀正勝(小六)、1526年(大永6年)~1586年(天正14年)の嫡子、蜂須賀家政、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)が、秀吉より阿波一国(18万6000石)を賜りました。はじめは、徳島市西部の一宮城に入城しました。
しかし、早々に、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある標高62mの渭山(のち德島)の地に大規模な平山城の築城を始め、1587年(天正15年)に完成させました。この時、家政は、地の利を頼むよりも、人の和を得ることこそが、これからの大名には必要である。要は徳にあって嶮ではない、と説いたと言う。そして、旧領の尾張や播州竜野、領国の勝瑞の城下町の商人などを德島城の周辺に移住させ、城下町(内町の町屋)を築きました。
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