眉山の名前は、遙かなる阿波国の方角に見える山影を望み、眉(まゆ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕(こ)ぐ舟 泊しらずも、との詠歌(万葉集、巻6、998)に由来すると言われています。その意味は、眉のように遠い空の彼方に見える阿波の山、その方にかけて漕いでいる舟の泊まるところは、どこだろう、というものです。
この歌は、聖武天皇(第45代)、701年(大宝元年)~756年(天平勝宝8年)が、734年(天平6年)3月に、難波の宮に行幸された時の歌六首のうちの一首で、隋l行した船王(ふなのおおきみ、生没年未詳、淳仁天皇(第47代)の兄)が詠んだものです。
しかし、江戸時代、庶民には眉山はなじみうすく、富田の山や佐古の山と呼んでいました。1895年(明治28年)、小学校教科書(地誌)に眉山の地名が表れ一般化しました。
眉山の呼び名については、諸説あり、1724年(京保9年)4月、徳島藩(第6代世嗣、早世)、蜂須賀吉武(はちすかよしたけ)、1691年(元禄4年)~1725年(享保10年)を徳島城内に招いた歌会で、京の歌人、有賀長伯(あるがちょうはく)、1661年(寛文元年)~1737年(元文2年)が、眉山の霞と題して、立春の みどりをこめて 佐保姫の 粧ひふかく 霧む山まゆ、と詠んだのが最初と言う。
また、1815年(文化12年)、徳島藩が、阿波志を編集した時には、まだその山は富田山となっていました。藩医、漢詩人の七條寿庵が、1728年(享保13年)、阿波十ヶ所参りをして、みちの記を書いて、船主の歌から眉山と命名した、と地元では伝えられています。寿庵は、眉のごと雲間に見ゆる、とは遠山を汎称し、一山をさすにあらざるなり、と述べています。
ということで、一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降と考えられています。明治の中頃、1895年(明治28年)には、小学校教科書の地誌に、眉山の地名が表れています。(徳島市編纂室編纂委員、吉益譲氏より)
眉山の山頂から徳島市街地と吉野川の河口域を遠望(中央の緑の小高い山は城山、徳島城址、北方のその向こうには吉野川、小さく吉野川橋、徳島市、google画像)
眉山の山頂へは、ロープウエーで6分、ほかに約4kmのパークウェーもあります。山頂一帯(茂助ヶ原と呼ぶ)、周辺には、放送局のテレビ塔や戦没者慰霊の塔パコダ、徳島人として生きたポルトガルの外交官、文豪、モラエス、 1854年(安政元年)~1929年(昭和4年)の記念館、宗教家、社会運動家、平和運動家の先駆者、賀川豊彦、1888年(明治21年)~1960年(昭和35年)の碑、展望休憩所、保養施設などがあります。山頂からの眺望がすばらしく、眼下に徳島市街が広がり、晴れた日に淡路島や和歌山の山が見渡せます。
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